自分の喜怒哀楽って、何か原因があるから発生するものだって私は思っていました。
だからその『原因』を何とかしたいと思ってた。
でも、最近気づいたのです。世の中にはどうしたって変えることのできないことがあるって。
雨がふってしまったとか、転んでしまったとか、そういうのは変えれなくてしょうがなかったって諦めがつくんだけど「人」や「相手」ってなぜか、「変えられる」って思っちゃう。
しっかり話せば
しっかり説明すれば
説得すれば
きっとわかってもらえる。
わかってもらえたらきっと、変わってくれる。
そう考えてしまう。
でもそれって、本当かな?って考える機会があって。
ちょっとした連絡の行き違いで、会社の上層部が社員のことを「金がないと動かない」「ちょっときついとすぐやめる」というふうに、どうやら「誤解」している事態が発生してる。
だから上は、何かにつけて色々と私たちを理不尽に説得してこようとする。
誤解されてるは理不尽だわで、どうしてわかってもらえないの?どうしてそんなふうに考えるの?どうして疑うの?でHSS型HSPの「全体調和モード」全開。しかし、調整するべき範囲が広すぎてむっり。
「捉え方を変えてみたらどうだろう」って心の中で言ってまわった笑
上層部の人たちは、私たちの見えないどこかの何らかのコミュニケーションで「金を出さないと動かない」「ちょっときついとすぐやめる」と捉えてしまった。
その思考に囚われながら、ねじ曲がったコミュニケーションを続けて説得しようとしている。
「誤解してる」「捉え方を間違った」のは相手の問題であって、私自身は相手が思っているような人ではないし、価値が下がるわけでもない。(誤解されたまま評価されたらあれですが・・)
相手がどう思おうが、自分の価値は下がらないという前提に話を聞けば、色々なことがふるい落とされて、相手が伝えたい「今よりよくしたい」という気持ちだけが残る。
そこだけを見れば「ああ、今よりよくしたいだけなのね」と捉えることができる。
「誤解」ってエラーだし、こっちの考えどおりに相手が「捉える」かって言ったら地味に難しい。
「誤解」って真実を知ろうとする人しか解けないし、相手の「捉え方」って、こちらがコントロールできるものでもないし、私の「捉え方」をコントロールして欲しくもない。
それは相手の問題であって、こちらがあーだこーだ言って強制できるかと言ったらそうでもない。
つまり考えるだけ時間の無駄。
ってなったとき、自分が「捉えるべき」はシンプルに「今、ここ」だけ。
そう考えると、怒りとか、相手に求める気持ちとかがスーって消えてった。
相手を許せるようになったし、大きな安心感を得られたし、内面が平和に保たれる。
すべては「捉え方」次第。
すべての「原因」は自分自身の「捉え方」だった。
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